場面場面でのジェンダー。

たぶん、

2年くらい前かしら。

 

ある有力な芸能プロダクション社長が、

「自分たちの子供の性別は、

その時期が来れば、

子供自身が決めてほしいと考えるので、

現時点での医学的な性別は、

親族やそれに準ずる方々にしか

お伝えはしていない」

という趣旨の話をしていた。

と、人伝に聞いたことがある。

 

或いは、ここ数日では、

ある事件の一般人目撃者が、

マスメディアの記者が、

被疑者の性別を男と断定した文脈で尋ねた際に、

「〜わたくしには、男性のように見えました」

と、自分が認識した被疑者の性別について、被

せて応答している映像をたまたま見た。

 

いわゆる、"男のくせに、女のくせに"の如し、議論の価値もないレベルではない、

本質的で微妙な場面でのジェンダー意識の存在

を感じる機会が俄に増えた印象がある。

 

普段の何気ない会話から、

学校の制服(個人的には、制服が存在しなけれ

ばいけない社会状況そのものがどーなのか、

と)、商業施設や公的施設のトイレ、

考え始めればキリがない。

 

日本の高度成長期に生まれたわたくし自身も、

ここのところかなり気をつけて話すようになった。

そもそも、

気をつけている時点でアップデートされていない。

 

確かに、個人個人、場面場合で、

あかの他人、第三者が個人のジェンダーに関連

する事柄を断定的に表明すべきではないと思う。

 

でも、これがなかなか難しく、

知らぬ間に、ひと様を不快な心持ちにさせているのかも?

と自問する時もある。

 

なんか、

そんなことを思います👓🐶